科学するブッダ 犀の角たち (佐々木 閑) を読んだ.

科学が好きな仏教学者が,科学と仏教の接点に関して考察した本だった. 宗教の専門家サイドから書かれた本ということで,疑いの目で読み始めたが実際のところ本書の半分以上が仏教とはほとんど関係なく科学の歴史,著名な科学者の功績について書かれている. 著者氏の狙いなのかはわからないが,この構成により後半以降で出てくる仏教の起源や思想,さらに科学との接点との考察が割とすんなり入ってきた.

元々,自分は科学をあまり神聖視しておらず,「理解できないことへのアプローチ」という意味では文学,宗教さらには音楽なども方法は違えど目的は同じなのではないかと感じていた. 本書を読んでみて,このベースとなる考えは大きくは変わらずも,科学と宗教の違う点と似通っている点への理解は少し深まったように思う.

本記事では自分が面白いと感じた部分を引用しつつ自分の考えを簡単に記していこうと思う. 以下の引用は全て同書のものからである.

科学の進歩とは「人間化」である

本書では,「人間化」という表現がたくさん使われる. 表現は自分にしっくりこないのだが,対象としている事象自体は面白い視点で,科学の発展を考える上で役に立ちそうである.その定義は以下のように書かれている.

私は、科学のパラダイムシフトがこのような方向に沿って進んでいると考える。神の視点が人間の視点に移っていくことを、自分の勝手な言い方で「科学の人間化」と呼び、それを堕落だと考える傾向を「下降感覚の原理」と呼んでいる

つまり,人間の周辺で起きる現象は複雑で,いまだに理解できていないブラックボックスは「神」のしわざであると人は考える. しかし科学の進歩により,その「神」(未解明の現象) の仕組みが説明されると,その現象が「人間化」されるということである. さらに著者によると,その「神 → 人間」の変化は直感的でないことが多いらしい.

パラダイムシフトとは、頭の中の直覚と、現実から得られる情報とのせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ、そういった現象だと考えることができる。

確かに,自然界で起きる現象は人間の脳で処理するには複雑すぎるため,それをうまく説明する理論が出たとしても,それを実際に理解するためには多くの時間を要することはよく起きる (多くは時間をかけても理解できない.). これは,少しながら科学に関わる人間としてワクワクする. 直感はもちろん重要な動物としての機能であるが,それを理性で乗り越え,より真に近い理解を行う営みにはロマンを感じる. 逆に悲しくなるのは,このように科学の性質を見ると自分が身を置いている分野は,純粋な科学ではなく工学(エンジニアリング)であること. まあどちらが優れているとかはないだろうが,世界の真理を理解するというロマンは弱い.もちろん別のロマンがあるわけなのだが,これについては別記事で言及したい.

科学と仏教の近接点

これを理解するためには,仏教の起源とその変遷の歴史を把握している必要がある. ざっくりまとめると,仏教の一番最初の形には神秘的なものは何もなく,そこにはただ瞑想というツールを用い世界の理解に挑んだブッダという「人」がいて,その形が科学と似ているということらしい (興味深いのが,オリジナルの仏教ではあくまでブッダは人であり,死因も食中毒と非超人的.). これを踏まえて以下の引用である.

科学は物質世界の真の姿を追い求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、気がついたら、神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる物質的世界観を作らねばならなくなっていた。一方の仏教は、同じく神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である。

ブッダは神ではなくて人だったので「神なき世界」という表現が使われている.

仏教の厳密な定義?や目的を自分は知らないが,この文をそのまま理解しようとすると,科学と仏教はその目的において近いものがあるように感じる. つまり,科学も仏教も「複雑な世界を合理的に理解したい」という目的は同じで,そのアプローチが異なるだけということ. 科学に身を置くものとしては,実験による検証や再現性のことを考えるとアプローチが大きく異なるので「科学も仏教も同じだ」と言われると違和感があるが, その違いを前提とすればこの二つの近接点に関する著者の論は理解できる.

ゆくゆくは脳に関しての科学が進歩し,人の精神的な部分までもが近代科学のフレームワーク上でうまく説明できるようになると,神の視点としての仏教の「人間化」が進むであろう. 逆に,科学では脳の理解は不可能であるとなったら,仏教による精神的なアプローチがそれに代わる「科学」として浸透したりするのだろうか. ちょっと怖いが,そうなったとしたら面白い.

機械に「意識」は実装できるのか

同書に以下のような記述がある.本の本筋と外れるのだが自分の研究分野とも関連する話なので少し考えみる.

我々人間の意識というものは、単にコンピューター機能の複雑化したものではなく、コンピューターには処理できない事柄、すなわち計算不可能な事柄を処理する能力がある(と思われる)

現状,いかに AI 研究が進んでいるからといって人間のような能力,ましてや「意識」なんてものの実現からは程遠い. まず,人間の「意識」とは何かということである. 信憑性は怪しいが足掛かりとして wikipedia を見てみると,「自分のことやその周囲のことを知覚できること」らしい. 今の AI において「自分のこと」とはなんだ,て感じだが,環境情報の理解という意味では意外と部分的にではあれど達成できているのではなかろうか. Computer Vision (CV) の研究では,画像からそれに映り込んでいる物体の認識は非常に高い精度でできているし,視覚情報の説明自然言語をキャプションとして生成することも結構できている. このような研究の成果は,部分的で瞬間的な自分周辺の情景の認知はできている,ことを示している. 逆に,「自分とその情景との関係性」とかはまだ遠い気がする. そもそも,機械における「自分」というものがソフトウェアである以上,通用の単一の人間と同じように定義することが困難なので,環境と自分の関係性とかの認識はそもそも難しい. (何気なく書いたが,なぜソフトウェアだと「自分」の定義がこんなんなのかは言葉にできない.複製が簡単にできてしまうからか?実態がないからか?) これは,ロボットのような形でソフトウェアに「身体」を与えてあげれば解決するのだろうか? あまり詳しくはないが強化学習の枠組みを使えば,トライアンドエラーを繰り返し,自分の行動と環境との関係性を経験的に学習することで「意識」を構成することができそうである.

他に機械に模倣できない意識の側面を考えるために KurzgesagtのYouTube動画wiredの記事を見てみたがまず意識がなんなのかわからない. そもそもその存在理由すらわからない,現在の機械学習技術を使えば特定の問題 (質問応答やチェス) においては人間を上回る知能を見せることがあるので,それに加えて意識の必要性があるのかとすら思う. なんとなくわかるのは,「意識」と「知能」という二つに人間の見えていない部分は分割することができて,「知能」は日々大量に遭遇する様々な問題を解くために必要で,意識はそれでない何か,という説があること.

混乱を極めたが,これらを踏まえて自分の意見をまとめると,「意識とは様々な問題を解くための知能群の狭間に生まれたあぶくのようなもの」で,それは単一のソフトウェア (または身体を持ったロボット) に複数種類の問題を解くための機構を実装すると,それらの狭間が発生するので人間と全く同じものではないが結果的に機械の意識なるものが出来上がるのではないかと思う.

何もまとまってないし,「意識」に関して本書の引用と定義が一致していない気もするが疲れたのでこれでひと段落する.

future work

  • 近年の研究で「意識」に関して解明されているのは何か
  • 機械における「自分」の定義